私の彫刻について
奥山 喜生
私は彫刻を作り始めた当初、人物の具象彫刻を作っていました。
そのうち、その人物像が、もっと強いインパクトを見る人に与えるにはどうしたらよいかという研究をしているうちに例えば、人間の髪の毛、眉毛、目、鼻、口までも取ってしまい彫刻の本来の物理的なエッセンスである量と線のみによるだけのコンストラクションが出来ないかということに至りました。
その後20年間イタリアで、このテーマでの研究時間となりました。
私が当初、カラーラで見た天然の大理石の割れた肌や白い色の美しさはこの上ない美しいものとして目に映りました。
最初は、これらをそのまま生かそうとしていました。
その中で石がそのままで、手つかずの自然のままの方が美しいなら、わざわざ自分が手を加えて変える必要がないと思うようになりました。
そこで自分が生まれてきたことへの懐疑が起こりました。
自分は、何をしに生まれてきたのだろう。
自分がこの地球上で生きるということのアイデンティティーの確認への挑戦でした。
素材に手を加えない方が美しいなら、自分は、彫刻を作る必要はない。
自分を自分自身の中で、どうしても肯定したいと思い、最後に思い至ったのが
手を加えることによって自然より自然なもの
“自然の美しいもの”より“人工の美しいもの”への研究が始まりました。
これが一生のテーマとなりました。
人間肯定、人間賛歌―自分の存在としての介在(アイデンティティ)
具象彫刻なら、たとえば意思を顔の表情や肉体の筋肉による緊張感の度合いや質感を表現することによってそれを鑑賞する人間がすでに作る側と共有して持っている共通概念を利用して制作すれば意思は或る程度伝わります。
抽象作品では、受け手の側にこの種の概念のコンセンサスがなく、どういう線と量が、どういう表情、意思、方向性を生み出すか新しい認識を持って研究しなくてはなりませんでした。